老女|Roujo

獣神 ハルヨHaruyo Jushinn

『翠雨にあらわれて』

老女「私について」

脚本 若杉栞南

1963年4月20日。神奈川の海が見える街で、私は生まれた。

 

県内の高校を卒業した18歳。

海辺を離れた都内での暮らしを前に、胸の中が静かに波打っていた。

 

この世に2つとない服を作り上げるブランドに一目惚れしたのは、

バイトで稼いだお金を握りしめて向かった下北沢でのことだった。

決して有名ではないが、店に並ぶ一つ一つは

製品に留まらずひとつの作品、表現物として機能していた。

そんな表現物で彩られる人々を見ていたい、

そう思った私は、高校卒業と共に下北沢に向かった。

 

思いの丈は伝わるもので、大学に行かない道を選んだ私をオーナーは拾ってくれた。

 

下北沢の奥まった場所にポツンと佇む店。

目立たないのに、どこか輝いているその店で、私は働くことになる。

 

アパレル店員、それを聞いた両親はふざけた職業だと頭ごなしに否定した。

そんな両親を見返すまで家に帰らないと決めていた。それを理由に、ただ下北沢という街に流れる独特な空気に酔いしれていただけなのかもしれない。

 

25歳、オーナーが亡くなった。

仕事を分配する中で、私は仕入れ担当を選んだ。7年経っても衰えないそのデザイン性に恋をしていたんだと思う。

この愛おしい作品を作る人に、会ってみたいという思いがひたすらに強かった。

 

28歳、表現物から表現者へと私の心は移っていった。

ブランドの代表作を作り上げるパタンナーに出会ったのだ。

彼の作り上げる服。着て初めて息をするという表現者としての心意気。

尊敬していた。

彼の持つ志に感銘を受けた。

18歳の時に一目惚れしたあの服は、彼のデビュー作だったそうだ。

運命を感じた。

 

彼が作ったものを私が売る。

お客様が嬉しそうにフィッティングルームから出てくる。

その瞬間、私たちが繋がった気分になった。

 

彼と出会って3年、彼の作品と出会って13年、

私たちの指には揃いの指輪が付いていた。

「これからも、僕の表現を愛してくれますか?」

そう言って彼はパターン紙で指輪を作って見せた。これは、私だけの暖かい思い出。

きっと死ぬまでこの思い出だけで冬を越せるだろう。

 

結婚と共に退職も考えたが、

「繋がった」そう感じるあの感覚から離れることはできなかった。

 

35歳、人生の絶望とは必ず一生に一度は訪れるものなのだろう。

彼の作品を愛していた。

表現者としての彼を愛していた。

私たちの愛を残したかった。

…残せなかった。私には、一生お腹を痛めて愛を残すことが、できないという。

産婦人科でのあの言葉をなかったことにしたかった。

 

その夜、彼は私を包み込んで、一緒に泣いてくれた。

「ありがとう」そのたった5文字で救われことだってあるんだと、私は知った。

 

子どものいない生活には私たちだけの空気がゆったりと流れる。

それはそれで、いいのかもしれない。

今までと変わらぬ私たち。何か変わったことといえば

…私は運命を信じるのをやめた。

これが運命だなんて言うのなら、運命なんてクソ喰らえ。

 

本社勤務を蹴って、現場でお客様と向き合った。

彼の服を、1000枚売った。

私は50歳になっていた。

 

「どこか遠くに行きたいね」

彼のその言葉の真意を、私はわかっていなかった。

セーヌ川のベンチで、18歳の時に手に取ったあの服の話をした後、彼は、倒れた。

 

ガンだった。

 

今までに貯めたお金全てを使って治療をした。

私にはもう、守るものなんてない。

あなた以外は。

 

彼は、頑張った。耐えた。きっと私のためだったんだろう。

「もう、辛いなぁ」と微笑み、目尻から一粒の涙を流した彼を見て、

私はこの3年間の治療が正しかったのか、分からなくなった。

分からない。分からない。分からない。

彼は、耐えた。ずっと耐えてきた。痛みに、絶望に、苦しみに。

これ以上、どうしたら良いのだろう。

私は思う。35歳の私と同じことを。

 

これが運命だなんて言うのなら、運命なんてクソ喰らえ。

 

53歳、彼とセーヌ川のベンチに座っていた。

出会った頃より小さくなった気がする。

ベンチに並んで水面の吐息に耳を澄ます。か細い吐息は、まるで彼のようだった。

「ありがとう」彼は言った。

私は何ができただろう。彼を幸せにできただろうか。考えるのをやめた。

「ありがとう」私は言った。

今、私は幸せである。そう、あの瞬間を思い出している今、私は幸せである。

 

彼は、旅立った。

 

治療費と旅費に消えた財産。

「旅行なんか行くからですよ」

どこぞの若者に言われたが、

後悔なんてしていない。あの人との時間に、

後悔なんてひとつもない。

 

そう思いながら今日も缶を集める。

はぁ。ったく。雨が降ってきたよ。

帰るかぁ。雨が凌げるあの場所に。